今迄の苦戦が嘘のようにとんとん拍子で話が進んでしまったが
油断は出来ない。もちろん性格的にも油断はできないたちであるが。
こういう性格だから幸せになれないのだ。
別にわざわざ経験も無い人間が、六十歳近くになってから
寿司職人になって、それを踏み台にして日本を脱出することによって
幸せを手にしようなどという回りくどく、しかも実現困難な事を
しなくとも、もうちょっと緩い人間になればそれでずっと幸せに
なれるような気がする。
度々自分が今行っている事の意味を考えてしまう。
将来幸せになる為に今を我慢して犠牲にする。
良くある事ではあるが、何か矛盾している気もする。
まあ、六十年近く生きてきて今更人間性が変わる訳は無いし、
つらくとも目標に向けて頑張るというのも後で振り返れば、
良い思い出になるという事もあるだろう。
とにかくこういう性格なので、のんびり構えること自体が
苦痛になってしまう。
私が働くことになる店は高級回転寿司店だそうだ。
「高級回転寿司ってどういうものか分かりますか?」
面接で聞かれた。
「シャリを機械で作るんではなくて、人間が握ったりするとか
でしょうか?...」
「一皿100円じゃなくて、もっと値段が高い店です。」
そりゃそーだ。店ではシャリは機械で作るが握る事もあるという。
バイトを始めるまで一週間ほど間がある。
取り敢えず昼間家にいるときは、昼食は握りにしよう。
東京から帰って来てからも、一人でいるときは努めて
握りの練習をして来た。いまだに美味しい寿司を手早く握る
自信が無いからだ。
お客さんに食べさせてお金を頂くのだから、いい加減な事は出来ない。
勿論新入りの私にいきなり握らせるわけも無いだろうが、
お店の先輩職人に笑われる様なことはあってはならない。